2009年

ーー−7/7−ーー タンスの改造

 
家具の改造を請け負った。二つの箱がジョイント金物で接続されている洋ダンスで、合わせたサイズは間口150センチ、高さ190センチという大きなもの。20年以上前に製造されたものだろうか。三枚の扉はスライド丁番で吊られているが、丁番の金具はほとんど破損していて、使えない状態だった。

 施主のリクエストは、まず大きい方の箱は高さ1メートルに切って、オーディオラックに改造。小さい方の箱は、高さ110センチに切って、扉付きの収納ボックスにするというもの。二つを切り離して、別々の場所で使う計画である。

 この手の改造仕事は、普通は受けない。もともと他者が作った物だから、不確定要素があり、思い通りに行かず、手間と時間ばかり掛かってしまう。しかも仕上がりの見栄えは良いはずがない。そのような仕事を請け負っても、値段の付け方に困ってしまうからだ。

 今回は、知り合いのお宅ということで、特別にOKした。ただし条件として、出来栄えは問わない、途中でダメだったら諦める、こととした。それでも施主は、長年使ってきたものを、形を変えて蘇えらせることに、チャレンジするだけでも意味があると熱心だった。私は、いわば遊び半分で引き受けた。

 タンスは、運搬業者によって運ばれてきた。作業に掛かる前に、全体を調べた。いわゆるフラッシュ構造である。角材を四角に回して枠を作り、その両面に薄い合板を張った「張りぼて」の板を組み合わせて躯体を作っている。量産家具の基本的な構造であり、私が作るムク板の家具とは、全く違う世界である。これが悪いというつもりは無いが、その簡便な作りに、改めて驚かされる部分はあった。

 改造は難しいものではなかった。まず丈を所定の寸法で切る。丸ノコにガイド板を使えば、大きな躯体でも簡単、正確に切断できる。次に、切り離された部分から天井板を外す。プラスチック・ハンマーでガンガン叩くと、ダボによる接合部はさしたる抵抗もなく陥落した。

 外した天井板を、新たな位置に付け直す。箱の内側に角材を抱かせて、それに天井板をネジ止めする。天井板の上には、支輪(躯体の最上部に載る分厚い板)を取り付けるのだが、オリジナルのものを利用することにした。間口を50センチほど切り狭め、切り口に別にカットした縁の板を張り付ける。これで、元々あったような感じになった。

 次に床板を張った。どういうわけか、このタンスには床板が無く、低いところに地板だけが存在している。これでは、今後の用途としては不便だろうから、床板を張ることにした。適当な材で下地の枠を組み、その上に不要となった部分の背板をカットして張った。

 大きい方のタンスは、内部に棚を二段設けた。棚板をはめ込む時、躯体の間口の寸法が手前と奥で若干違うことが判明し、調整に一手間かかった。

 小さい方のタンスは、新たに扉を作った。なるべくオリジナルの部材を使って改造するという方針だったが、さすがに元の扉を切断して使うことはためらわれた。クリ材を使い、框組みに立て板を並べてはめ込むという、シンプルなデザインにした。この方が全体の雰囲気に合うと思ったからである。大きな扉なので、普段は使わない「面腰」という技法で、框の内側にキリ面(面取りの一種)を回した。

 元の扉の納まりは「被せ」だったが、新しい扉は私がいつもやっている「仕込み」にした。丁番は在庫で持っている真鍮の角丁番を使った。マグネット・キャッチは、元のものを取り外して付け替えた。量産家具では、手間がかかるから敬遠されるが、やはり扉は「仕込み」の納まりが美しい。

 仕上げの塗装は、なるべくオリジナルの色と合うように、オイルステインを塗った。普段使っていない塗料だったので、往生した。扉は、色を濃くするために重ね塗りをしたら、ベタベタ、ガチガチになり、とても見苦しくなったので、薄め液で全面を拭き取り、その後オイル・フィニッシュを2回かけた。それで、色が薄めになっている。

 施主のお宅へ納品した。出来上がった品物をご覧になって、ご夫妻は満足されたようだった。タイミングを見計らって、費用の事を申し上げた。「こんなことでも、たいそう手間と時間が掛かるのですよ」と、くどくど説明をした。施主は良く理解してくれて、「こんな金額でいいのですか?」と言った。

 帰りの車の中で、同行した家内と話をした。「仕事としては割に合わないが、なにはともあれ、お客様に喜んで頂いて、その上現金収入が得られるということは、有り難い事だ」で、意見は一致した。



ーー−7/14−ーー 常設展示始まる

 このたび、あるギャラリーに私の家具を常設展示することになった。場所は高原野菜で有名な群馬県嬬恋村。浅間山麓の鬼押出しから「日本ロマンチック街道」を北に進み、JR吾妻線の万座鹿沢口駅に届く少し手前。嬬恋郷土資料館に隣接してある「蕎麦処水車」の別館である。

 ちなみにこの郷土資料館の下には、鎌原観音堂という史跡がある。天明3年の浅間山の噴火で流出した土石流や火砕流によって、村が飲み込まれ、観音堂に逃げ上がった僅かな村人だけが生き残ったという悲惨な事件。その出来事は、東洋のポンペイとも呼ばれている。

 ギャラリーの展示は、草木染めとガラス工芸の作家との合同で、10月一杯までの予定。私はテーブル、イスなどの家具7点と、小木工品を置かせて貰っている。

 この蕎麦処は、4月から11月までの営業だが、期間中に4000人ほどの客が入るとか。通りすがりの観光客に加えて、近隣の別荘族も多く利用しているもよう。蕎麦はとても美味である。採れたての野菜の天ぷらなども楽しめる。

 別館は、かなり大きな建物だが、一部を土産物売り場に使っていただけで、大きなスペースが空いたままになっていた。それを有効利用し、施設全体の雰囲気を盛り上げようという試みで、この展示が企画された。それに私もご指名頂いたという次第。

 どういう展開になるかまだ分からないが、作品が多くの方の目に触れる機会となるのは間違いない。良い出会いが生まれればと願っている。



ーー−7/21−ーー 蓮華岳登山

 12日、北アルプスの蓮華岳に登った。今月末に予定している北アルプス縦走に向けての、トレーニングの一環である。

 蓮華岳(標高2799メートル)は、大町市の西方にそびえる巨大な山である。その存在感は大きいが、わざわざこの山を登りに来る人は少ないのではなかろうか。それは、この山の位置が、わずかに主流となる登山コースから外れていることによる。

 登山口は、立山黒部アルペンルートの玄関口にあたる扇沢。大型バスで乗り付ける観光客を横目に、森の中の登山道に入る。天気予報は当たったようで、視界は良く、山の上の方まで見える。梅雨の最中のワンポイントの晴れ間を狙った作戦は、功を奏したかに見えた。

 針ノ木大雪渓の登りにかかった。雪渓の末端で、夫婦とおぼしき中高年の二人連れが、アイゼンを装着していた。私もアイゼンを持参してはいたが、よほどの事がない限り使わないつもりでいた。二人の脇を抜けて、そのままどんどん登って行った。

 雪渓の最上部で、10人ほどのパーティー2組とすれ違った。どちらも中高年のツアー登山のようだった。全員がアイゼンを付けていた。私がキックステップ(登山靴を雪面にけり込んで足がかりにする登り方)でガシガシと登るのを、奇妙なものを見るかのように見ていた。

 針ノ木峠に上がると、雨風が強かった。雨は雪渓の途中から降り出したのだが、峠では反対側からの風も加わって、荒れ模様だった。そこから蓮華岳の山頂まで1時間ほどである。一瞬進退を迷ったが、ちょっと小降りになる気配にうながされて、山頂に向かった。

 稜線を登って行くと、小降りどころかますます厳しい天気になった。風速15メートルくらいだっただろうか。時折よろめくほどだった。雨と風に体温を奪われた。雨具を着用するタイミングを誤り、既に全身が濡れていた。ストックを持つ手が冷たくなり、しびれて感覚が鈍くなってきた。気が滅入るような、辛い登高となった。

 頂上の手前で、降りてくる単独の登山者とすれ違った。私と同年輩の男性だった。お互いに「やれやれ」という表情で会釈を交わした。私は久しぶりに、山の上で出会った見知らぬ人に対して、共感を覚えた。

 山頂は地味だった。やはり登る人が少ないのだろうか。砂礫の上にコマクサが咲いていた。しかし、それを写真に撮る余裕はなかった。山頂の滞在時間は一瞬であった。マラソンの折り返しのようにして、下りに向かった。

 雨風に打たれながら、来た道を戻った。峠に着くと、朝追い抜いた夫婦が、ちょうど登って来たところだった。ひどく疲れた様子だった。

 雪渓を下る。気温で雪が緩んでいるし、傾斜もそれほどきつくないので、アイゼンを使う必要はない。靴のままどんどん下る。雪渓の中ほどまで下ると、視界が良くなり、下界が見えた。振り返ると、雪渓の上部はガスの中に消えていた。長大な雪渓の上に、私一人だった。このときの不思議な孤独感を、何と表現したらよいだろう。

 登山口まで降りると、陽が射していた。天気が悪かったのは、山の上の方だけだったようである。下から見ただけでは、山上の厳しい天候は分からない。下界は暑い夏の一日だったのだろう。ともあれ、肉体的のみならず、精神的にも良いトレーニング山行となった。

 ところで、雪が残る山へ行くたびに、登山者のアイゼンの使用について、いささか違和感を感じる昨今である。

 どう考えても必要の無いところで、つまり傾斜が緩く、雪が柔らかく、転倒しても滑落の可能性が無い斜面で、アイゼンを使っている登山者がいる。中には、雪が消えた登山道で、アイゼンの爪を土に刺しながら歩いている人もいる。中高年登山者に、そういうのが多い。

 私は大学山岳部出身だから、アイゼンの使用をできるだけ控えるのが、一つの癖のようになっている。他の人が靴で歩いている斜面であれば、自分がアイゼンを使うのはプライドが許さない。雪面を靴で歩くのは、一つの技術である。それを追及するのが、登山家としての心得だと思っている。

 先日の新聞記事では、地元の警察が「夏山でも、雪が残っている所では、ピッケル、アイゼンなどの滑り止めを使うこと」などとコメントしていた。これもちょっと的外れだと思う。ピッケルやアイゼンなどは、使い方を知らなければむしろ危ない道具である。

 「雪が残っていて、危険だと思われる所には行かないこと」と書く方がまだましだ。山での安全を確保するのは、ピッケルやアイゼンなどの道具ではなくて、安全に対する意識である。その意識がモチベーションとなって、知識を蓄え、体力を鍛え、技術を磨く。それが正しいプロセスだと思う。道具を手に入れれば何処へでも行けるという発想(勘違い)こそ危険である。

 慣れない人が雪渓の上を歩くのは、おっかなびっくりだろう。しかし、その不快な体験を、便利な道具によってバイパスしてはいけない。それが、自然と向き合うためのルールである。辛く、もどかしい経験を積み重ねていくうちに、自然との付き合い方が分かるようになる。それが登山の面白さでもある。そういうプロセスが面倒で嫌な人は、山になど登らぬ方が良い。



ーー−7/28−ーー 登山中止の落胆

 今週は、山の上にいるはずで、マルタケの更新は無いことにしていた。それが、このように書いているというのは、登山が中止になったからである。

 出発の前日に、相棒から電話があり、天候が思わしくないので、再考したらどうかとの打診があった。雨天がはっきりと予想される状況で山に向かうのは、如何かと思うというのである。

 私には、山岳部出身という経歴が、古傷のようにして残っている。大学山岳部は、天気が悪いことを理由に登山を中止したりしない。どんな天気でも、現地までは行く。そして、結局は山に入って行く。「止めよう」を口にすることはタブーなのである。

 肉体的にも、精神的にも、極度にきついことを、自らの意思で選択するのが登山である。ラクな状況を求めるのは、登山という行為の本質と矛盾する。しかし、実際には苦痛から逃れ、不安から解放されたいという誘惑が起きる。それがジレンマである。そのようなジレンマに陥り、易きに流されないために、軍隊のような規律で自らを縛る。それが山岳部のスタイルである。

 今回一緒に行く予定だった友人は、本格的な登山の経験はまだ数回という初心者である。古傷にカサブタがこびり付いているような私とは感覚が違う。彼にとっては、ずぶ濡れになって山中をさ迷うなどという行為は、わざわざ金と時間をかけてやるような事ではない。それは全く正常な判断である。私は、時代遅れの特攻精神のようなものに、友人を付き合わせてしまう事の愚を悟り、中止することにした。

 この決定は正しかったと思う。彼の家族も安心したことだろう。私はと言えば、いつでも気が向いた時に山へ行くことができる生活である。冷静に考えれば、雨が降っているときに、わざわざ山へ行く理由などない。それに、もう歳である。意地を張って厳しい状況を自らに課し、辛い試練にじっと耐えるなどという事は、若い諸君にお譲りしよう。

 年齢に相応しい、スマートな解決を見た。しかし、ぽっかりと穴が開いたような、この空しい気持は何だろうか?






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